無意識に避けていること。

図書館に行っても、紀伊国屋書店に行っても、ジュンク堂に行っても(ジュンク堂なんて行ったことない。)多くの図書がありますが、その中でも自分が読みたい本があります。

今日、毎日の習慣で糸井さんの今日のダーリンというコラムを見ていると、読みたくない本や、文章が自分には存在するなということに気付きました。

無意識的に、ではありますが、僕は決めつけている本や、文章をあまり好まないようになっている気がします。それがいくら個人の経験談や、成功を収めている人が書いた文章であったとしても、です(そもそも成功とは何なのかということは、いずれ考えるとして)。

きっと書いている人は、それが絶対的に正しいと思って書いているし、それを信じて実践する人も、間違ってはいないと思うし、実際自分も、なにか偏った(と言うと、言い方が悪すぎる気がします)ものの考え方をしている人の意見を正しいと思っているかもしれないです。

僕個人の意見を言わせてもらうと、ものごとにおいて、これは絶対的にこうだ。ということはほとんどないように思います。もちろん僕もその都度その都度、こちらが正しいのではないか、という判断を下して、生きているわけですが、後からその判断が間違ったものだったと気づくことは本当に多いし、誰かの言ったこと鵜呑みにして何年間もその人の考えが正しいと思っていた、が、何年か後にそれは間違っているかもしれないな、と思ったり、右往左往しています。

だから、なにか「意見を言っている人」がいるとして、その人が、その反対の事象についても考えている人でなければ、無意識に遮断しているのだと思います。

無意識怖いです。でも無意識の気づきは自分にとっては一番心地良い瞬間というか、より自分が分かったような感覚になるので割と好きです。村上春樹の小説では、この現象は自己の喪失と言われていました。とてもよくわかります。自分が分かる度に、自分の思い描いていた自己が喪失されるという感覚。しかしそれは同時に自己の洗練でもあると思います。ダイヤモンドの原石が研磨され研ぎ澄まされていくのと同じように、自分の余計な部分がカットされて、本来の自分になっていくような感覚。カットされすぎて自分が無くならないように注意しながら、ダイヤモンドになりたいものですな。はい、知らんがな過ぎますね。

そんな感じでまた無意識に気付けたら、誰に宛てるでもなく書きたいなと思います。