カーブ少年3

雲一つない晴天の中試合が始まった。打順は1番。彼がレギュラーに選ばれたのはキャッチャーの腕もさることながら、打者としてもすぐれた才能を有しているからだった。天は二物を与えずと言うが、野球においては大体において優れた選手というのは、何をしても人よりも勝っていることが多い。彼のチームは徹底的な出塁主義を貫くチームであった。従って足が速かろうと、遅かろうと1番打者になる可能性があるし、ホームランが打てようと、打てなかろうと、4番打者になることもある。彼のチームにとって打順とは、そのまま出塁率順であった。彼は小さいころからキャッチャーとして出場してきたせいか、打席でもよく考えて打つことを無意識のうちに体得していた。しかしキャッチャーの時とは違い、打席での彼は「好球必打」だけを意識していた。相手が甘い球を投げる以外に自分に打つチャンスはないと考えていた為、ストライクを二つ取られるまで狙い球であったとしても、厳しいコースには手を出さず、逆に甘いコースであったとしても自分の狙い球でなければ手を出さないことを徹底していた。そして追い込まれると、積極的にファアボール狙う。

彼の一見、消極的ともいえる打撃スタイルは、彼のチームの理念に絶妙に噛みあった。彼は高校に上がるまでその実績を認められず(チャンスではファアボールなので目立たず、特に足も速くないので、目立つ場面がない)8番キャッチャーを余儀なくされていた。

 

続く

カーブ少年2

カーブ少年2
 
この日も、彼はキャッチャーとして試合に出場予定であった。
彼は3年生の飛騨の球をブルペンで受けていた。
「おーい、坊主、今日の俺の弾はどうや」
飛騨は彼のことを坊主と呼ぶ。彼はこれに関してもわれ関せずといった具合で受け答える。
「いつもより、球威がありません。」
「関係あるかい。俺の球がまともに打たれたことあるか?」
「3回まともにホームランを打たれました。」
「それは全部カーブやろ。おれのまっすぐはまだ誰にも打たれたことはない。そやろ」
「たしかにそうです」
事実その通りであった。飛騨の弾は全練習試合の中でまともにクリーンヒットを打たれたことすらない。
飛騨の弾は明らかに高校生が投げる一般的な「球」とは一線を画していた。
だから、飛騨も彼も、飛騨の球を「弾」と呼んでいる。お互いにそういう共通認識を取り合った。
なぜかは分からないが、この共通認識をとってから、彼らの仲は深まったし、以前よりも飛騨の球威、球速は上がった。
 
しかし彼は、飛騨の「弾」に対して好意的ではなかった。
飛騨の弾はあまりにも品質が良すぎて、彼が考えるまでもなく、対戦相手を打ち取ってしまう。
対戦相手が飛騨の弾になすすべがないように、彼もまた、試合中、飛騨の弾を受ける以外になす術がなかった。
彼は守備中でも攻撃のことを考えるようになった。そのようにして、飛騨の弾は、彼の楽しみ、間の存在を彼に忘れさせた。
彼が間の存在を思い出したころ、彼の才能は消えていた。彼が無限のように扱えたあの1秒は、我々にとっての1秒と何ら変わらないただの”1秒”になり下がった。
その時彼は野球をやめてしまおうかとすら思った。なぜなら彼が野球をしていたのは、あるいは愛していたのは、あの間があるからこそであった。
しかし辞めたところで、あの間は戻ってはこない。他のスポーツには、定期的に訪れるあの魅力的な間はない。
彼は野球を続けることにした。飛騨の弾を受け続ける事にした。
 
その頃からだった。彼がカーブを投げたいと思い始めたのは。
 
続く。

カーブ少年

カーブ少年
 
彼は無性にカーブを投げたいという欲にかられていた。
彼は、小学生の頃から野球をやっていた。ポジションはキャッチャーだった。
少年野球のコーチからお前は太っているからキャッチャーをやれと言われて以来キャッチャーをやり続けている。
太っていること、というのは彼にとって特段卑下するものでもなければ、もちろん自慢するようなことでもなかった。
彼自身、自分のことを太っていると思っていたのでコーチに太っているから、という理由でキャッチャーに任命されたときも
「太っていたら、キャッチャーになるのか」と新たな学びを得たに過ぎなかった。
 
彼は小学校、中学校と年を重ね、今では高校一年生となった。彼は野球部に所属し、一年生ながらにしてキャッチャーというポジションを先輩から奪い取った。
中学の頃から、深くキャッチャーの事を知りたいと思い歴代の有名な捕手の出した本は全て読み、野球妙も1985年度版から全てを読んでいた。
彼には独自の理論があった。それは、野球とは騙すスポーツである、ということであった。
野球には独特の間がある。一つ一つのプレーの間に、参加している全ての人間が考える”間”がある。
その”間”が彼はとても好きだった。この”間”がなければ、キャッチャーどころか、野球すら辞めてしまっていたと思うほどに彼はこの”間”を愛していた。
彼は守備をしているとき、バッターをどう騙すかを熟考するが、投手の球を捕球してから、投手に次のサインを送るまでの時間、その”間”はほんの1秒にも満たないであろう。
しかし彼にはその”間”を独特の時間感覚で使う才能が有されていた。我々にとっての一秒は彼にとっての1秒ではない。
もちろん彼が生活全般において、この能力を駆使できるわけではない。彼がその能力を使う事が出来るのは
その”魔”とも呼べる”間”だけであった。彼が”間”を好きな理由はそこにあった。彼は投手が投げた球が自身のミットに収まった時から始まる(永遠とも呼べる)時間を
心から楽しんでいた。どう騙し、どう欺くか。打者の考えることの裏の裏の裏まで考えた上で自身の結論を出す。
それは彼を、広大な宇宙の中で、平泳ぎをしているような感覚にさせた。
 
続く。

好きという感情

この前、自分のブログに書いたようなことを、友達に話したら、

好きという感情をあんまり肯定的にし過ぎないようにしていると言われました。

好きだから頑張れる、とその友達は自分に言い聞かせて、卒業論文とか、就職活動を頑張っていたそうです。だけど、本当の本当に好きなんなら、頑張るということばはでてこないんじゃないかなということにも気づいていたと言っていました。

でも好きというのを、否定的に思っているわけではないのです。そりゃあもう、好きは尊いことだと思います。だけれども、俺たちは何かを始めるには、そして好きだけで動くには遅すぎたかもしれないね。

やはり、好きだという感情ももちろん大事だけれども、やりたくないことをやらないのほうがもっともっと大事なのかもしれないと思いました。

全く関係ない話ですが、村上春樹の短編小説で、ビートルズの「Yesterday」を関西弁で和訳するというキャラクターが登場するのですが、それが妙にツボにはまってしまって、飽きるまで 僕もそれをやろうかなと思っています。飽きるまではやります。毎日1個。(笑)

 

っと、今確認したところ、原詩とは全く関係のない歌詞をつけていたみたいです。それも関西弁で。どんだけおもろい友達や。

ってことで辞めにします。俺の試みは面白くなさ過ぎる。(笑)

 

スタンダードな人達。

スタンダードな人になりた~い。

スタンダードな人になりた~い。

スタンダードな人にしかなれな~い。

 

そうなんですよね。矢野顕子さんのことを糸井さんは「ピアノが愛した女」と称したそうです。矢野さんがピアノを愛しているのではなく、ピアノから矢野さんにすり寄られているようなのです。スタンダードというのは、きっと矢野顕子さんのように、なにかにすり寄られるような人の事では無く、誰からも愛されず、モノからも愛されず、自分から何かを愛することでしか、自分を確立できない人の事を言うのでしょう。残念ながら、僕はそうでしょう。まだ22歳だぜ諦めんなよ、と自分に言い聞かせたい気持ちも山々なんですけどね。

しっかしスタンダードな人が悪いか、と言ったらそういうわけでもないような気がします。「生きる」というのはもうまるごと全部を指していることだと思うからです。つまりは、寝て起きて、歯を磨いて、ご飯を食べて、掃除をして、軽いスポーツななんかしちゃって、仕事も頑張って、また寝る。こういうことを「生きる」というのであれば、きっとスタンダードというのは生きているということなんだと思うのです。

何でこんなことを言っているのかと言うと、梅田にスタンダードカフェというブックカフェがあります。僕はそこが結構好きで、月に1回くらいは行っているのですが(これを好きというかどうかの判断はお任せします。(笑))「スタンダードな人」という紹介の基に、糸井さんや、松浦弥太郎さんと言った方の出した本や、エッセイなどが並んでいます。そこの本をパラパラめくってみると、うわあ、楽しそうに生きているなあと本当に思います。月並みで申し訳ありませんが、僕みたいな大学生の心にはズドンとドストライクなわけです。どんな生き方かと申しますと、まあなんら普通の人と変わらないです。至って普通のライフだと思います。だけれども、どれをとってもひとつずつちょっといい。って僕は思いました。普通の人だったら気にも留めないような箇所をよりよい暮らしを目指している、いや、目指しているというよりは自然とそうなっているって感じがまたいいんだと思います。

こういう人にはかなわないと思うなあ。仕事まで生活の一部にしたいなとすごーく思います。うん、それがいいなあ。

 

コピーライター講座、開校式

何日ぶりだ。いや、しかし何日ぶりにパソコンを開いた。

気付いたら1か月経っていました。意識的に書かないでおこうと思っていたのですがザ・ブルーハーツのベストをツタヤで借りて、パソコンに保存しておこうと思って、パソコンを開いたら、過去の自分が、決心のようなものを書いておりました。内容は書きませんが、今日書くような内容と同じようなことを書いていて、何でこんな同じことを何度も何度も考えてしまうんだろう、馬鹿だなあと思いました。むだな前書きはほどほどにして、昨日の話を書きました。

 
昨日4月22日。
コピーライター講座の開校式がありました。
糸井さんに憧れて、勢いで申し込んだので正直な話
コピーライターがどんなもので、何をして稼いでいるのか、そこまで詳しくは知らなかったし、その点にあまり興味が無かった。
コピーライターというよりは、糸井さんがどのようにして糸井さんになったのかということのほうが僕の関心事であり、コピーライター講座を申し込んだ最大の理由でもある。ここ最近村上春樹にはまりすぎて、というより固執しすぎて自分も小説家にいずれなりたいな、なんて思っていたのだけれども、そういう風に考えると自分には足りない事だらけでどうしても気持ちが塞いでしまう日が多々あった。
 
俺は結局何になるんだろうと。
俺は何がしたいんだろう、何が好きなんだろう。何回この自問自答を繰り返したことか。
 
話がそれるけど、俺がいいなあって思う人は、子供のころからすきなことが見つかって
それに向かって一心不乱に取り組んでいる人。ヒグチユウコさんもそうだし、三国真理子さんもそうだし、横尾さんもそうだし村上春樹だってそうだと思う。
その人たちに憧れたところでもう無理なんだよなあとかって思いつつ、でもそれでもさ、俺は好きな事を見つけたいんだ。
ってずっと思ってた。
そりゃあ毎日のように上で書いたような自問自答を繰り返すわけさ。
 
でさ、何でだったかなあ忘れちゃったんだけど、ことばで生きていきたいって思ったんだよねやっぱり。
この人達みたいに純粋にさ、すきなことをやれるって俺にはできないんじゃないかなって思ったんだ。
それはつまり、子どもが、見よう見まねで絵書いてみたり、詩を書いてみたりするようなことじゃなくて
「努力」って決め込んでやっちゃったほうがいいんじゃないかなって思うようになってきたの。
 
今までは、俺はいますきなことをやっている。って信じ込んできたし、どこかで思わせようとしていたんだけどね、
改めてまあ努力も入ってるよねって認めてあげようかなって思ってさ。
そうするとまた新しい問題は出てくるんだろうけど、ちょっとだけ楽になった。
これはつまり今の自分を認めてあげようねってことなんだと思う。
大体なんでもそうだけど、ことばにするのは簡単でも、実際に行動するのは難しいというのはこのことだね。
と、コピーライターの開校式を経て思ったのでした。
 
そのコピーライターの開校式を見てコピーライトって詩だな。って勝手に思いました。
先生が出す作品にも詩のような文章が書いてありました。ボディコピーというそうです。
ぼくはそれを見て、糸井さんの生い立ちに触れたような気がしました。
その生い立ちは、僕の背中を押してくれたような気がしました。
「ことばならなんでもいいじゃん」って。

無意識に避けていること。

図書館に行っても、紀伊国屋書店に行っても、ジュンク堂に行っても(ジュンク堂なんて行ったことない。)多くの図書がありますが、その中でも自分が読みたい本があります。

今日、毎日の習慣で糸井さんの今日のダーリンというコラムを見ていると、読みたくない本や、文章が自分には存在するなということに気付きました。

無意識的に、ではありますが、僕は決めつけている本や、文章をあまり好まないようになっている気がします。それがいくら個人の経験談や、成功を収めている人が書いた文章であったとしても、です(そもそも成功とは何なのかということは、いずれ考えるとして)。

きっと書いている人は、それが絶対的に正しいと思って書いているし、それを信じて実践する人も、間違ってはいないと思うし、実際自分も、なにか偏った(と言うと、言い方が悪すぎる気がします)ものの考え方をしている人の意見を正しいと思っているかもしれないです。

僕個人の意見を言わせてもらうと、ものごとにおいて、これは絶対的にこうだ。ということはほとんどないように思います。もちろん僕もその都度その都度、こちらが正しいのではないか、という判断を下して、生きているわけですが、後からその判断が間違ったものだったと気づくことは本当に多いし、誰かの言ったこと鵜呑みにして何年間もその人の考えが正しいと思っていた、が、何年か後にそれは間違っているかもしれないな、と思ったり、右往左往しています。

だから、なにか「意見を言っている人」がいるとして、その人が、その反対の事象についても考えている人でなければ、無意識に遮断しているのだと思います。

無意識怖いです。でも無意識の気づきは自分にとっては一番心地良い瞬間というか、より自分が分かったような感覚になるので割と好きです。村上春樹の小説では、この現象は自己の喪失と言われていました。とてもよくわかります。自分が分かる度に、自分の思い描いていた自己が喪失されるという感覚。しかしそれは同時に自己の洗練でもあると思います。ダイヤモンドの原石が研磨され研ぎ澄まされていくのと同じように、自分の余計な部分がカットされて、本来の自分になっていくような感覚。カットされすぎて自分が無くならないように注意しながら、ダイヤモンドになりたいものですな。はい、知らんがな過ぎますね。

そんな感じでまた無意識に気付けたら、誰に宛てるでもなく書きたいなと思います。