カーブ少年3
雲一つない晴天の中試合が始まった。打順は1番。彼がレギュラーに選ばれたのはキャッチャーの腕もさることながら、打者としてもすぐれた才能を有しているからだった。天は二物を与えずと言うが、野球においては大体において優れた選手というのは、何をしても人よりも勝っていることが多い。彼のチームは徹底的な出塁主義を貫くチームであった。従って足が速かろうと、遅かろうと1番打者になる可能性があるし、ホームランが打てようと、打てなかろうと、4番打者になることもある。彼のチームにとって打順とは、そのまま出塁率順であった。彼は小さいころからキャッチャーとして出場してきたせいか、打席でもよく考えて打つことを無意識のうちに体得していた。しかしキャッチャーの時とは違い、打席での彼は「好球必打」だけを意識していた。相手が甘い球を投げる以外に自分に打つチャンスはないと考えていた為、ストライクを二つ取られるまで狙い球であったとしても、厳しいコースには手を出さず、逆に甘いコースであったとしても自分の狙い球でなければ手を出さないことを徹底していた。そして追い込まれると、積極的にファアボール狙う。
彼の一見、消極的ともいえる打撃スタイルは、彼のチームの理念に絶妙に噛みあった。彼は高校に上がるまでその実績を認められず(チャンスではファアボールなので目立たず、特に足も速くないので、目立つ場面がない)8番キャッチャーを余儀なくされていた。
続く
カーブ少年2
カーブ少年
好きという感情
この前、自分のブログに書いたようなことを、友達に話したら、
好きという感情をあんまり肯定的にし過ぎないようにしていると言われました。
好きだから頑張れる、とその友達は自分に言い聞かせて、卒業論文とか、就職活動を頑張っていたそうです。だけど、本当の本当に好きなんなら、頑張るということばはでてこないんじゃないかなということにも気づいていたと言っていました。
でも好きというのを、否定的に思っているわけではないのです。そりゃあもう、好きは尊いことだと思います。だけれども、俺たちは何かを始めるには、そして好きだけで動くには遅すぎたかもしれないね。
やはり、好きだという感情ももちろん大事だけれども、やりたくないことをやらないのほうがもっともっと大事なのかもしれないと思いました。
全く関係ない話ですが、村上春樹の短編小説で、ビートルズの「Yesterday」を関西弁で和訳するというキャラクターが登場するのですが、それが妙にツボにはまってしまって、飽きるまで 僕もそれをやろうかなと思っています。飽きるまではやります。毎日1個。(笑)
っと、今確認したところ、原詩とは全く関係のない歌詞をつけていたみたいです。それも関西弁で。どんだけおもろい友達や。
ってことで辞めにします。俺の試みは面白くなさ過ぎる。(笑)
スタンダードな人達。
スタンダードな人になりた~い。
スタンダードな人になりた~い。
スタンダードな人にしかなれな~い。
そうなんですよね。矢野顕子さんのことを糸井さんは「ピアノが愛した女」と称したそうです。矢野さんがピアノを愛しているのではなく、ピアノから矢野さんにすり寄られているようなのです。スタンダードというのは、きっと矢野顕子さんのように、なにかにすり寄られるような人の事では無く、誰からも愛されず、モノからも愛されず、自分から何かを愛することでしか、自分を確立できない人の事を言うのでしょう。残念ながら、僕はそうでしょう。まだ22歳だぜ諦めんなよ、と自分に言い聞かせたい気持ちも山々なんですけどね。
しっかしスタンダードな人が悪いか、と言ったらそういうわけでもないような気がします。「生きる」というのはもうまるごと全部を指していることだと思うからです。つまりは、寝て起きて、歯を磨いて、ご飯を食べて、掃除をして、軽いスポーツななんかしちゃって、仕事も頑張って、また寝る。こういうことを「生きる」というのであれば、きっとスタンダードというのは生きているということなんだと思うのです。
何でこんなことを言っているのかと言うと、梅田にスタンダードカフェというブックカフェがあります。僕はそこが結構好きで、月に1回くらいは行っているのですが(これを好きというかどうかの判断はお任せします。(笑))「スタンダードな人」という紹介の基に、糸井さんや、松浦弥太郎さんと言った方の出した本や、エッセイなどが並んでいます。そこの本をパラパラめくってみると、うわあ、楽しそうに生きているなあと本当に思います。月並みで申し訳ありませんが、僕みたいな大学生の心にはズドンとドストライクなわけです。どんな生き方かと申しますと、まあなんら普通の人と変わらないです。至って普通のライフだと思います。だけれども、どれをとってもひとつずつちょっといい。って僕は思いました。普通の人だったら気にも留めないような箇所をよりよい暮らしを目指している、いや、目指しているというよりは自然とそうなっているって感じがまたいいんだと思います。
こういう人にはかなわないと思うなあ。仕事まで生活の一部にしたいなとすごーく思います。うん、それがいいなあ。
コピーライター講座、開校式
何日ぶりだ。いや、しかし何日ぶりにパソコンを開いた。
気付いたら1か月経っていました。意識的に書かないでおこうと思っていたのですがザ・ブルーハーツのベストをツタヤで借りて、パソコンに保存しておこうと思って、パソコンを開いたら、過去の自分が、決心のようなものを書いておりました。内容は書きませんが、今日書くような内容と同じようなことを書いていて、何でこんな同じことを何度も何度も考えてしまうんだろう、馬鹿だなあと思いました。むだな前書きはほどほどにして、昨日の話を書きました。
無意識に避けていること。
図書館に行っても、紀伊国屋書店に行っても、ジュンク堂に行っても(ジュンク堂なんて行ったことない。)多くの図書がありますが、その中でも自分が読みたい本があります。
今日、毎日の習慣で糸井さんの今日のダーリンというコラムを見ていると、読みたくない本や、文章が自分には存在するなということに気付きました。
無意識的に、ではありますが、僕は決めつけている本や、文章をあまり好まないようになっている気がします。それがいくら個人の経験談や、成功を収めている人が書いた文章であったとしても、です(そもそも成功とは何なのかということは、いずれ考えるとして)。
きっと書いている人は、それが絶対的に正しいと思って書いているし、それを信じて実践する人も、間違ってはいないと思うし、実際自分も、なにか偏った(と言うと、言い方が悪すぎる気がします)ものの考え方をしている人の意見を正しいと思っているかもしれないです。
僕個人の意見を言わせてもらうと、ものごとにおいて、これは絶対的にこうだ。ということはほとんどないように思います。もちろん僕もその都度その都度、こちらが正しいのではないか、という判断を下して、生きているわけですが、後からその判断が間違ったものだったと気づくことは本当に多いし、誰かの言ったこと鵜呑みにして何年間もその人の考えが正しいと思っていた、が、何年か後にそれは間違っているかもしれないな、と思ったり、右往左往しています。
だから、なにか「意見を言っている人」がいるとして、その人が、その反対の事象についても考えている人でなければ、無意識に遮断しているのだと思います。
無意識怖いです。でも無意識の気づきは自分にとっては一番心地良い瞬間というか、より自分が分かったような感覚になるので割と好きです。村上春樹の小説では、この現象は自己の喪失と言われていました。とてもよくわかります。自分が分かる度に、自分の思い描いていた自己が喪失されるという感覚。しかしそれは同時に自己の洗練でもあると思います。ダイヤモンドの原石が研磨され研ぎ澄まされていくのと同じように、自分の余計な部分がカットされて、本来の自分になっていくような感覚。カットされすぎて自分が無くならないように注意しながら、ダイヤモンドになりたいものですな。はい、知らんがな過ぎますね。
そんな感じでまた無意識に気付けたら、誰に宛てるでもなく書きたいなと思います。